うろん紀行

わかしょ文庫


第12回 ???

 その日でなければならなかった日に、その場所でなければなかった場所で、しなければならなかったことをする。あらかじめ定められた運命をまっとうする。些末な枝葉も結末からたどれば必然であり、読み終わるころに伏線だったのだと気がつく。この世界でおこる出来事はあらかじめ書かれており、生きるということは書物をたどる行為なのだ。

「だって運命の人に出会えたということでしょう?」

 もし書物の存在を信じているのだとしたら、なんてことのない顔をして頷けばよかったのだ。しかしわたしは苦笑いをしてしまったような気がする。

 十年くらい前、居酒屋でもう名前も覚えていない人が言った。

「ドストエフスキーっていうのはすごいね。どの文にも意味がある。無駄がないんだ」

 わたしはそういうものかと感心し、その人の言葉のなかのドストエフスキーのように生きたいと夢想した。しかしできなかった。生活は脱線しこんがらがり、もはやどれが伏線でどれが本筋なのかがわからない。わたしの本はすでに、何の意味もなさない言葉で埋め尽くされてしまったような気がする。

 ボルヘスの「バベルの図書館」では、巨大な図書館が語られる。そこには無限に等しい数の本があって、アルファベットとカンマとピリオドのあらゆる組み合わせが存在している。ほとんどの本は何の意味もなさない文字列がただ並ぶだけだが、実はあらゆる言語のいままでに書かれた言葉とこれから書かれるであろう言葉のすべてが存在しているのだ。そしてその図書館にはたった一冊、「弁明の書」と呼ばれる本があるのだという。

弁明と予言の書物がそれで、宇宙の人間の一人ひとりの行為を永久に弁護し、その未来のために驚くべき秘密を蔵しているものであった。([1]p.109)

 多くの人間がその「弁明の書」を探し争った。だが「弁明の書」とあらゆる文字が一字だけ異なる本もまた大量に存在し、一文か一部分かそれ以上に異なる本もまた、無数に存在する。それら無数の本たちは「弁明の書」にはなり得ない。もしかすると、ほんの一字でも無駄が含まれた途端、本は価値を大きく失ってしまうのだろうか? だとしたらわたしの本は? わたしはわたしの生涯において、すべての言葉をそれがあるべき場所にあるべき順番で並べることはできなかったはずだ。

『夢十夜』の第六夜では、なぜか明治の時代に運慶がいる。運慶が無造作に、しかし確実に のみ を扱って仁王像を彫っているのを見て、通りすがった若い男はこう言う。

「なに、あれは まみえ や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に うま っているのを、鑿と槌の力で り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して 間違 まちが はず はない」([2]p.49)

感心した「自分」も、真似をしてかたっぱしから何本も薪を彫ってみるのだがうまくいかない。

つい に明治の木には 到底 とうてい 仁王は うま っていないものだと さと った。([2]p.50)

 第六夜の運慶のように、自然にあるべき姿を明らかにするようにして生きる人間も、もしかしたらどこかにいるのかもしれない。でもわたしは運慶ではないから、試行錯誤や猿真似を繰り返すしかない。どうにか真似て仁王らしきものを彫って、そこで思わず薪を取り落としてしまうのかもしれない。仁王の顔は割れ、縦に大きな傷が走ってしまうだろう。途端にそれまでの行為はすべて意味を失う。仁王ではなくなってしまった手の施しようのない何かが、わたしの足元に転がっている。

 ロバート・ゼメキス監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズでは、本来あるべき最良の未来を求めて1955年が何度も繰り返される。それは推敲に似ている。でもデロリアンはスクリーンの中にしか存在しないから、誰も過去を推敲することはできないし、伏線の答え合わせもできない。さかのぼって歴史を修正し、あるべき完璧な状態にすることはできない。

 観測されるまで未来はわからない。現在、そして過去になっていくかつての未来。無数の可能性のうちのひとつにすぎなかったものを、まるであらかじめ定められていた運命のように受け入れる。そうしないとやっていけないからだ。わたしたちは未来を、まるでかけがえのないものみたいに歓迎してみせる。そこにいたるまでの間違いや歪み、痛みを許容して。傷や不具合を庇うようにして。賢者は愚者のふりをして、まるでそれが混じりけのない黄金そのもののような、運命であるかのように未来を受け入れる。欺瞞を覆い隠して無邪気な顔をしてみせる。それがどれだけ退屈で、残酷で、悲劇的なものであったとしても。こうするしかなかったんだ。すべてなるようになるんだ。わたしたちひとりひとりにかけがえのない運命が用意させられているのだと、必死に騙されたふりをする。運命なんて本当は存在しないのに。あるのはこうなってしまったという、予想のできないたったひとつの現実だけだ。

 それでもあなたは運命を信じるだろうか? 1957年4月、カリフォルニア州に生まれた少女はやがて監禁されるようになり、裸電球一つの寝室で幼児椅子に縛り付けられて毎日を過ごした。十三歳になり救出されたのちも、歩くことはおろか立つことすらできなかった。プライバシー保護のためジーニーという仮名が与えられたその少女は、筋力不足を補うようなひょこひょことした歩行“ウサギ歩き”を身につけた。言語獲得に最も大切な時期を逃し、貧弱な二語文でしか表すことのできない過去をひとりで引き受け、いまもなお施設で生きている。救出される前、彼女が暗闇でただ裸電球を見つめ、その行為が意味するところも知らず自慰に没頭していた日々の空虚さ。彼女には無数の未来があったのではないか。とりかえしのつかないことが起きてしまった彼女の喪失、歪み、痛みはあらかじめ彼女の本に記されていたとでもいうのだろうか。だが無限に開かれていたはずの未来にたいして過去はただひとつ。喜ばしいものかそうでないかにかかわらず、すべてその身に覆いかぶさってくる。

 猫田道子『うわさのベーコン』にベーコンは出てこないし、うわさすら存在しない。

 私がこの家に生まれた時から、私の身近には楽しい音楽がありました。これは、きついレッスンにたえていく音楽ではなくて、私の生活の一部となっていました。([3]p.7)

語り手は藤原家の「私」。三歳のときに兄が交通事故にあい、 のフルートが残された。「私」は短大に通いながらフルート奏者を目指す。でも兄のフルートは従姉妹のおミッちゃんに渡してしまったから、リコーダーとハーモニカを吹いている。島根に彼女がいる「光司さん」と六月中に結婚しなければと焦り、七月になったらもう結婚をする気は失せてしまう。この小説において誤字脱字はあえてそのまま残されている。敬語も間違っているし、ひらがなの「し」のフォントはすべて右に傾いて震えているみたいだ。

「これ、使わないの?」と誰となく聞いてみたら、母が「お兄ちゃんが使っていたのだけれど、お兄ちゃんが交通事故で死んだから使う人がいなくなったんだよ。」と答えて来られたのでした。ここで改めて私は兄の死を知らされた。私は泣いてしまいました。わんわん泣いていても、母達は私をなぐさめず、自分の音楽にふけっています。それでもまだ泣いていた自分が、ふと泣くのをやめて辺りを見回すと、皆んな笑っている。“何故笑っているの?”([3]p.8)

『うわさのベーコン』の「私」は、壊れた文法と誤字脱字を引っ提げ、ぜいぜいと息を切らしながら歩いているようだ。書かれる前にそれらの間違いが、誤謬が、必然性をもって定められていたのかどうかはわからない。もしかしたらすべて計算ずくなのかもしれないし、本物の間違いなのかもしれない。だがあらゆる誤字も、それが記された時点で過去になる。一歩一歩踏みしめるようにして、無数の可能性は失われてただ一字になる。それが明らかに間違っていたとしても。

「Tさんとは馬があいませんでした。今は、お別れした事を後悔していません。おミッちゃんのフルートの胞も上がる事をのぞんでいます。その伴奏者となって下さった、直ちゃんの妹さんの胞も上がって欲しく思っています。 いつ 的に、フルートの曲は難かしく思っています。その伴奏も、難かしそうです。しかし、フルート奏者のために書かれた曲を無視する事はやりたくありません。」([3]p.39)

 わたしはいま、家から徒歩十分ほどの、なんてことのない喫茶店でこの文章を買いている。元は雀荘だったこの喫茶店のクーラーは煙草のヤニで黄色く変色し、吹出口から出る冷風ですらニコチンが含まれているように感じられる。わたしはアイスカフェラテを頼んでもよかったなと思いながら、ホットの紅茶を飲み干す。会計を済ませて階段を降り、この喫茶店から出ると、右手にまいばすけっとがあり、左手に松屋がある。その隣のマクドナルドでは汗をよく吸いそうな素材でできた服を着た男の子が、だらしなく姿勢を崩し、フライドポテトをストロベリーシェイクにディップして食べているのがガラス越しに見える。その横の奥まったところには大きなキャンドゥがあり、文房具と食料品の品ぞろえが充実している。そのまた隣にはこのあたりに唯一の本屋、TSUTAYAがある。一階部分は書籍を販売し、二階ではDVDとBlu-rayのレンタルと中古ゲームソフトの販売を行っている。セルフレジでは壮年の男性が抱えるように持っていたアダルトDVDを取り落とし、派手な音があたりに響く。向かい側には特別に美味しいわけでもないが不味くもなく、安くも高くもない中華屋がある。この店では何を言っても一回では聞き取ってくれないことを前提に、ゆっくり注文しなければならないことを思い出す。電化製品を購入してもポイントはつかないが、取付け工事を請け負う電気屋があり、似たような白物家電が店先にいくつか並んでいる。家にいてもよかった人たちが、真夏日だというのにマスクをして歩いている。

 この街でなければならない理由はなかった。わたしはこの街に住もうと思って住んだのではなかった。この街だって、わたしが住もうが住まなかろうがどうだっていいだろう。他の人だってみんな同じだ。誰でもよかった人たちがこの街で生きている。誰ひとりとして運命のもとに生きているわけではない気がする。でもそれでいいのだ。

 私がやりたかったのは、私が幼い頃、私の家族がやっていた音楽です。出来ますか?([3]p.38)

 きっとできないだろう。フルートを吹いていた兄は死んでしまった。兄のフルートも「私」の手元にはない。でも間違いながらも、「私の家族がやっていた音楽」を目指しながら、どうにかやっていくことはできるだろう。

 こうしている間にもわたしは、選び取るべきだった最もすばらしい未来から離れているのかもしれない。いまは『うわさのベーコン』を読むべきときではなかったのかもしれない。でもどこかにあった最善や最良をつかみ取れなくても、つかみとったものが最も自分にふさわしいものだったのだと信じたい。あらかじめ定められた運命だったのだと目をつぶし、耳に熱湯をそそぐ。これがもっとも素晴らしい言葉なのだとうそぶきながら文字を並べる。わたしはあらゆる間違いや誤謬を引き受け、年を取っていく。無数に思えた未来を、たったひとつの過去にして。

(完)

参考文献
1.J.L.ボルヘス 著、鼓直 訳『伝奇集』(岩波文庫)、一九九三年
2.夏目漱石 著『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)、二〇〇二年
3.猫田道子 著『うわさのベーコン』(太田出版)、二〇〇〇年

著者紹介:わかしょ文庫(わかしょぶんこ) 91年生まれ。都内在住の会社員。昨年5月に出したエッセイ集「ランバダ」がひそかに話題を呼ぶ。11月に文学フリマ東京に出品した続編「ランバダ vol.2」も好評を博す。Twitter @wakasho_bunko

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