うろん紀行

わかしょ文庫


第1回 海芝浦

 そこは、駅の一方が海なのだという。ではもう一方はどうかというと、東芝だ。そのような不思議な駅の存在を、わたしは笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」によって知った。いつか行きたいと漠然と思いながらも、行き方を調べることはなかった。

 友田さんに連載の話を持ちかけていただき、どことも知れぬ駅に行ってなにかを思うという本連載が決まった。であるならばいい機会だと思い、海芝浦駅に行くことにした。

 「タイムスリップ・コンビナート」は小説だ。マグロと恋愛をする不思議な夢を見ていた折に、誰とも知れぬ人から電話がかかってきて海芝浦駅まで行ってしまう、という話で、道中現れる景色は、語り手に幼少期を過ごした四日市の風景を思い出させる。しかし記憶は曖昧なまま、結局のところたどり着いたのは行き止まりの駅にすぎないことに気がつく。わたしは昔、二年間だけ製鉄所のある港町に住んでいたことがあり、どこか他人事に思えなくて、この小説が好きなのだ。

 間接的に作品の追体験の機会を与えてくれた友田さんは、作中における誰とも知れない電話の主か。それとも触れると爆発するマグロか。わたしはまだ友田さんに一度しか会ったことがない。

 海芝浦駅へはJR鶴見線で行くことができる。路線図を見てもらえばわかるが、鶴見線はフォークのようになっていて、どん詰まりの終点がいくつかある。そのうちのひとつが海芝浦駅だ。鶴見駅のさらに奥、黄色い看板を目印に改札内から、もうひと階層深く改札をはいると、そこが鶴見線のホームだ。わたしは古びた車両に乗り込み、若草色のシートに背をもたれかけさせた。毛の密度が粗く、経てきた年月を感じさせる。しばらくして電車は動き出した。何も考えず乗り込んでしまったが、この列車は海芝浦行きではないから、浅野駅で乗り換えをしなければならない。

 何分か揺られて着いた浅野駅は、無人駅だった。申し訳程度に改札機が立ててあるが、いくらでも無視することができそうだ。ここで何分待てばいいのか。えっ、四十五分。自動販売機に温かい紅茶はなかった。かわりに冷たいブラックコーヒーを買って飲んでいると、にわか雨が降ってきた。勢いがあったがすぐに止んだ。目の前は線路だというのに、成人の腰の高さくらいある、麦によく似た草が生い茂っている。遠くには子猫を咥えた巨大な親猫が描かれた倉庫。資本主義の終末か。郷愁に浸るふりをしながら、文庫本を開きひまを潰す。

 大きなカメラを抱えた少年が、こちらの様子をおずおずと探るようにしながら、線路のほうを向いてシャッターを切っていた。鉄道が好きなのだろうか。でもいま電車はいないし、このシンプルな駅にそれだけの価値があるのかわからない。そもそも、あの子は本当にこの世にいる存在なのだろうか。でもきっと向こうも、わたしに対して同じことを思っているよな。こっちはカメラすら持っていないのだし。よほどこの場にそぐわないに違いない。そんなことを考えているうちに、少年はどこかへ消えてしまった。こんな何もない駅からいったい、どこへ。

 めぇええええええ。

 べぇええええええ。

呼応しあう生き物の声が聞こえる。ヤギだ。ヤギがなぜこんなところに。どうやら浅野駅からさほど遠くないところに公園があり、そこで飼われているらしかった。鳴き声のした方角に、うごめく白い四本足の獣がいる。どうやらあれがヤギだなと見定めた。沖縄の人ですら滅多にヤギ汁を食べないと聞いているが、本当だろうか。すると、今度は雨が降ってくる。もう何が何だか、いよいよわけがわからなくなってきた。

 ようやっと海芝浦行きの電車が、ゆるやかな弧を描きつつやってきた。三両編成だった。最果てに行くというのに、大層な身分である。

 海芝浦行きはぽつぽつと乗客がいた。全員で十数人ほどだろうか。まさか全員が東芝の社員というわけでもあるまい。電車はスピードをあげた。わたしは半身にかかるGを感じながら、流れる景色をぼんやり見ていた。途中駅で乗客の三分の一ほどが降りた。扉が閉まり発車すると建物はどんどんと離れていき、窓を占めるものは空と海ばかりになる。それなのに、不思議と景色は無機質さを増していくように思えた。

 ついに海芝浦駅に到着した。駅のホームは、フェンスの取り付けられた細長いアスファルトという印象だ。幅は二メートルほどしかない。黒のフェンスの向こうはもちろん、海だ。ぞろぞろと乗客が降りる。老夫婦は先に降りたほうが手を差し伸ばし、もう一人を支えていた。真っ黒に日焼けをした、トライアスロンの選手のような格好をした中年男性がいる。子供を三人つれた家族は、幼い末っ子以外元気がない。それに、傘を差したまま、列車から出たり入ったりを何度も繰り返す眼鏡の男。

 わたしは最後に降りた。ここが海芝浦駅? そう、ここが海芝浦駅。夢見た「タイムスリップ・コンビナート」。白く濁る空と海、そしてコンビナート。煙だけが朱色をしていた。右手に見える巨大な吊り橋の名は、鶴見つばさ橋。吊り橋なんてあの小説に出てきただろうか。

 電車がやってきた方向に道はなかった。わたしはふらふらと取り憑かれたように前進した。左手側のフェンスは板でできたホームらしいものに変わった。屋根はついているけれども、柱の隙間からあいも変わらず海が見える。波が揺れている。ずんずん進むと右手側に改札が見える。ラミネートされた張り紙に、ここから先は東芝なので撮影はお断りしますと書いてある。植え込みがいくつかある。トライアスロンだけが颯爽と中へ消えていった。まさかあなたが東芝だったなんて。

 前方に一般客向けの改札が現れる。一般客向けの改札だって? そんなものは、あの小説には出てこなかった。一本足の改札機をピッとやると、屋根がいつのまにかなくなっていて、そこは公園になっていた。人と人がすれ違うことにすら困難を覚える、細長い公園。本来あるべきでないところに無理やり作るからこうなるのだ。あたりには、訪れる人々が四季折々を感じることができるよう、樹木が植えられていた。花をつけているものもある。それに、恋人たちが愛を語らうのに御誂え向きの、プラスチック製のベンチまで。

 さきほどまで乗客だった人たちは、手持ちのデバイスで写真を撮ったり花を愛でたりしていた。
「お父さん、昨日NHKで見たとおりね」
老婦人がそう言った。ふうん、やっぱりこの駅はテレビでやるんだ。それにしてもタイムリーだ。わたしは手持ち無沙汰な気がして、iPhoneで何枚か写真を撮った。ほぼ真っ白の、なんてことはないつまらない写真が何枚か撮れた。

 なんか思ってたのと違ったな。雨に濡れ、とてもではないが座れそうにないベンチを見やりわたしは思った。わたしが行きたかったのは最果ての地、結局どこにも辿り着くことができないのだという絶望をひしひしと感じさせてくれるところ。「タイムスリップ・コンビナート」における海芝浦駅は、まさにそういった場所として機能していた。だがどうしようもなくレジャー感、あるいはアミューズメント感が漂っていた。わたしは辿り着いてしまっていた。それにつけても人が多い。ここはぎりぎり、家族で来てしまえる場所だなという気がした。ランチボックスを持って来れば、ちょっとした行楽ができてしまうだろう。まだお互いが好意を持っていることを知ったばかりの恋人たちであったら、この光景を前に二、三時間はベンチで語らうことができるはずだ。それはいいことなのだけれども、かえってわたしはさみしさを覚えた。恥ずかしげもなく真一文字の姿を晒す吊り橋、あれはいつ作られたのだろう。公園ができたなんて知らなかった。「タイムスリップ・コンビナート」が発表されたのは94年。四半世紀という年月が、海芝浦駅の景色を変えていた。

 それに、つや消しの加工を施された銀色の改札はどこにあるのだろう。柔らかなフォルムを持つ近未来の改札。それに、真っ昼間だというのに煌々と光を放つ、迫り来る野城のような工場は。そんなものはどこにもありはしなかった。本物の海芝浦駅にもなかったし、「タイムスリップ・コンビナート」のどこにも、そのような描写はなかった。それらは、わたしが勝手に作り出していたものだった。わたしは何を読んでいたのだろうか。わたしはたしかに、繰り返し「タイムスリップ・コンビナート」を読んでいたはずだ。そのたびごとにわたしの精神は、得体の知れない郷愁とともに海芝浦駅に転送されてきたと思っていた。でもわたしが、連なる文字たちに連れてきてもらったと思っていた海芝浦駅は、わたしの頭が勝手に作り上げたまぼろしだった。記憶や他のフィクションとごちゃまぜになり、全く別の海芝浦駅ができあがっていたのだ。わたしの頭のなかにはたしかに海芝浦駅が存在していたのだが、それは本物の海芝浦駅とも、「タイムスリップ・コンビナート」の海芝浦駅とも、かけ離れたものになっていたのである。

 「タイムスリップ・コンビナート」の海芝浦駅、現在の本物の海芝浦駅、そしてわたしの頭のなかの海芝浦駅は全て異なっており、それらは決して交わることのないねじれの位置に存在していた。わたしは明らかに注意深さが欠如しており、自分の楽しみを優先した身勝手な読者だった。海芝浦駅は無言のまま、わたしにそのことを無慈悲にも告げていた。

 でももしかしたら、小説とはそもそもが、そういったものなのかもしれない。まるで電化製品の取り扱い説明書のように、懇切丁寧な描写がなされていても、読者は違うところに辿り着いてしまうのかもしれない。記憶や肉体が、さまざまなものが邪魔をするからだ。であるならば、人はなぜ小説を書くのだろう。なぜ小説を読むのだろう。それは無謀な試みなのに。決して同じ場所にたどり着くことはできないのに。小説は、本当は、読まれるときの現象としてしか存在し得ないのだ。意味を持つ文字が連なって印刷された本が、行儀よく本屋や図書館やあるいは自室の本棚に並んでいるとき。そのときには、それは小説でないのだ。読まれてはじめて小説は生まれる。けれども、小説が読まれるというその現象は、読者によって、時と場所によって、違うのだ。再現性は不確かなのだ。であるならどうしてわたしたちは、同じ小説を読んだふりをして語らったりするのだろう。

 電車がもう出るという。わたしはここに取り残されるわけにはいかない。そう思って、のろのろと歩き出す。車掌が二人、何を話しているのか楽しげに笑いあっていた。わたしは慌てて乗り込んだ。もう次の場所へ、行かなくちゃ。

(つづく)



著者紹介:わかしょ文庫(わかしょぶんこ) 91年小樽生まれ。札幌で育ち、大学進学に伴い上京する。会社員。著書に日常の悲喜こもごもをまとめた「ランバダ」シリーズがある。嫌いな食べ物は特にない。Twitter @wakasho_bunko

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